昭和46年05月07日 朝の御理解
御理解 第96節
「世の人があれこれと神の事を口端にかけるのも神の比礼じゃ。人の口には戸が立てられぬ、先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかる様な事を言うても腹を立てな、神が顔を洗うてやる。」
折角信心をさせて頂くので御座いますから、どんな場合でも例えばそれが神の事を口端にかける。信心をさせて頂いておる者が、信心の事をとやこう言われたり致しますと、無性に腹が立つものです。ですけれども、それは神の比礼じゃと、こう仰せられる。だからその、そういう場合に、はあ神様の御比礼じゃな、神様の生き生きとした働きを表し御座るのじゃなと、解かる所までは信心を頂きたい。
以前の話ですけども、今は熱心に親子でお参りをして来ますけれども、あの高山さんという人があります。 お母さんが熱心にお参りをして見える。何かで母子口争いがあって、今植木の御用を承っておりますね。高山さんの息子さんですが、金光様の事をえらい悪口を言う。もう母親に一番こたえるのは神様の事を言われる事ですし、其処を知っている訳です。其処でお母さんが、「お前はあたいが一番好かん事を言うばいな」と言うて口争いをしたと、言う話をしておりました。
あたいが一番いわば好かん事。一番腹を立てる事を、お前は言うねと息子さんに言うというのです。信心さして頂く者に神様の事をとやこう、又は自分の信心させて頂いておる神様の事を、まあとやこう言われて、それを又腹も立たんごとあるなら、それは可笑しいですよね。けれども其処をもう一つ乗り越えさして頂いて、それが神の比礼じゃとわからせて頂くによって、腹が立つどころか、もうすぐに其処に神様の生き生きとした働きが、此処頂けれるのだ。
表れる印だと解からせて頂く様になると、それは今度反対に有難い事になって来るね。だから、其処までは頂きたい。信心させて頂いておって、自分のおかげを頂いておる教会の事なんかを悪く言われたり、先生の事なんかを悪く言われたりすると無償に腹が立つ。それは其れ程教会に、先生にいわば帰依しておるから、腹が立つのです。けれどもそれをです、それを言われると「ほんなこつそうね」と同調する様では、言わば信心がまだ迷い信心の時であろうとこう思います。
悪口にほうそげなことなと、いうちからと云う様な場合であったら、それはいわゆる信心が低調の時であります。腹が立つ様になったら、ちっとは其の事が解かって来た。信心の無い者が、ねーごつ言うが、何も解かりもせんな、知りもせんなと言うて腹が立つけれども。もう一つそれを越えたもの。其れが神の比礼だと解かる。神様の生々とした働きだと解からして貰う。
そこまで頂かなければ私は折角信心させて貰うなら、そこまでは頂きたい。これはもう一時が万事にそこんところまでのおかげを頂いたらです、最後に神が顔を洗うてやると云う程しのおかげになって来ないのです。神が顔を洗うてやると、なるほど神様じゃなあと云う事なんです。成程信心し御座ったから、おかげを受けられるなあと。神が顔を洗うてやるとおおせられるおかげを渡して貰う為にです、私共は神様の比例じゃと云う事を一つ知らねばいけません。
そこのところを行ったり来たりしよりますから、何時まで経っても、これは神様が顔を洗うて下さる。神様が顔を立てて下さる様なおかげに成って来ないのですね。悪口を言うておる人でもなるほどなと、悪を言っていた人も、神信心について来るというほどしのおかげになって来ない。神の比礼じゃと、神様の生き生きとした言わば働きの表れがその様な事になって来る。
昨日の晩ですね一昨日の御理解に、丁度映画なんか見ます時に、上からこうね、取りますとね、町の情景など、人がこういっぱい寄っておる。それを私が拝ませて頂くのは、丁度その町の通りのあっている情景を、二階からでも見たという感じで頂く。其処にですね、一人は傘を持っている。一人は傘をさしておる。別に天気が悪いのでも何でもないのに、そういう状態ね。
私はそれを見せて頂いてから、成程お天気の日に傘を持ったり、傘をさしたりしている人の姿を見たら、多くの人は、あれはちっと馬鹿じゃなかろうかと思う。今日のごとあるお天気に傘どん持って行きよるとか。いや持つだけじゃないそれを差していると云う様な状態を見たら、あれはちっとおかしいちゃないだろうかと云う様な気が致しました。それを見て、信心さして頂く者は私はそうだと思うです。
それが少し熱心になって参りますと、もう口を開けば神様の事を言う。有難い話をする事になると。しかも毎日毎日お参りをする。信心さして貰えば暇も掛かりゃ所謂時間も掛かる。時間も要るのであるお金も勿論要るのである。信心する者は馬鹿のごとあると見えるそういう姿であるとこう思うね。だから信心の薄い人又は信心のない人は、お天気の良い日に傘を持ったり、差したりしている様に見えるであろうと思います。
そういう場合ですよね、人が馬鹿んごと言う。睡いとにあんた何時間という、時間を人より少なく眠らにゃならん。毎日忙しいとにお参りをして、何処が良かならば。言うなら此処で云うなら合楽、合楽と言うて行くかその気持ちが解からん。信心する者の気持ちが解からんと云う事になるでしょう。処がどうでしょう。少し曇って来た、さあ他の者は小走りで、まあ少しぐらい降るかしらんと、あわてるでしょうけど、傘を持っている人は一つもあわてんで良い。
ぼちぼち落ちて来たというても、傘をさしておる人はおかげで濡れんで済むです。成程傘を持っている人は、傘をさしている人は濡れんで済んだ。あわてんで済んだという時にです、初めて信心じゃなあ、神様じゃなあと云う事になるのです。ですから信心しておってもですね、信心しておってもね、人が笑うたり、人が悪口言うたりしたら、いちいちそれに反対したり、反発したり、腹を立てたりしている様な事態ではおかげにならんのです。傘を持たせて頂いとる事が有難い。
信心をさせて頂いとるのが有難い。解からない人は、どんな事をあれこれ、神の事をあれこれ、神の事を口端のかける。それでも私は、その人達のために祈ってあげれる様な心の状態、また悪口を言われたからと言うてひるむような事はない。いよいよ益々信心に手篤いおかげを頂いて行くだけではない。それが神の比礼だと解かる。それが神様の生き生きとした、おかげを下さろうとする働きであると知る。
時にそれがまた有難い事になる。おかげ真近しという時である。そしてその先にです、おかげが成就した時ですね、信心とは、神様とはと云う事になって来るのである。または一般の人は慌てふためいておる時に、慌てんで済むおかげ。人がびしょ濡れに濡れている時に、濡れんで済むおかげを、はっきり其処に表して行けるだけ信心。其処までは頂かして頂きたいと思うのです。
合楽に信心の稽古に通うておってもです、少し曇って来たらもう慌てる。少しどうか言われたらもう腹が立つね。さあ雨がぼつぼつ降ってきたら日頃の信心は何処へやら、神様は何処へやら。やはり信心のない者と同じに、うろたえ、慌て、濡れしぼたれになっていると言った様な信心では、人が悪口言うのも当たり前ですね。だからそう云う事では、言わば馬鹿らしい話しなんです。
信心さして頂いておってね、人が慌てんならん場合でも慌てんで済む。人が濡れている時に濡れんで済む程しのおかげを頂く。言うなら、神の事を口端にかけてもです腹を立てるどころか、是はおかげ真近しと思える程しに神様を信じられる。其処までは信心を頂いておきたい。今日もどうぞ神様の心にかなう信心でありますように。今日も信心の稽古をさして下さいと、例えば言っておっても。
愈々稽古さして下さろうとする問題を問題とする、稽古をさせて頂くと云う事に成って居れば、腹になっておれば、あっ神様は此の事で稽古をさせて下さるのだなと解かるのに。真からの、言わば本気で信心の帯が出来ておらん処にです、その様な事になってくる。私は何と言うても信心させて頂くと云う事は、先ず何と言うても心が助かる事です。それは願えばおかげも下さる。また一生懸命願う事もいる。
それは目先鼻先の事を願うも良かろう。けれどもそういう願いを持っての信心さしてもらう内に、愈々本心の玉も研かれて、次の改まりの上にも精進さして頂いて心が助かって行く。先ず自分の心が助かる。金光大神の境地というのは、丸い玉の様なものでしかもその玉の様なものに喜びという字がいっぱい書いてある。どちらに転がしても喜びだけしか出らんというのが、金光大神の境地だというふうに聞いておりますが。
私は日々にお互いが信心の稽古をさして頂いて、「今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり」と仰せられる。その和賀心とはね、どういう場合であってもそれを有難しと受けられる心だと思う。ね。和の心と穏やかな心。けれどもその穏やかな心がです、ちょっと人につつかれたり致しましたら、もうその和の心が乱れる様な心は、私は信心でいう和の心じゃないと。
信心でいう和の心と云うのは、いわゆる壊れないもの壊れない和乱れない和、それを和賀心の和というのである。只心が穏やかであるというだけではない、その穏やかな心が、例え其処に掻き乱される様な事を言われても、聞いてもそう云う事に直面してもです、その和が乱れないという程しの心を和賀心の和という、いわゆる不壊の心なんです。壊れない、其れには今日私が申しますように、神の事を口端にかける。
まあ信心さして頂いとって一番腹の立つ事は、自分の頂いておる神様、自分が信頼しとる先生の事を悪く言われたり、教会の事を悪く言われたり、金光様のことを悪く言われたりする程しに腹の立つ事はない。けれどもそれが神の比礼と解かる時です、心はもう壊れない。だから今日は其処までは、せっかく信心さして貰うなら頂いておきたいと云う事です。和の心祝い喜ぶ心、生き生きとした心、昨日もある方が、此の頃は家内がちっと、どうもヒスを起こしてならん。
とおーき時、何ヶ月目くらいには起きて来るらしいです、その奥さんの病気が。それはもう辺り近所におられん。そういう時に私はどういうふうにあったら良かろうかとこう言う。一体大体この合楽にはそういう傾向が多いですね。私はそういう人をまあ心の病気、重症患者だとこう思う。どんなに考えても不平どんがあるどころじゃない、不足どんが言えれる人じゃない人がです、もう腹が立って腹が立って、見るもの聞くものが腹が立って。日頃はとっても有難い有難いと言っておって。
その病気が起こりますとね、もう見るもの聞くものが腹が立つ。そういう病気が起こってくる。特に女の人に多いです。ですから辺り近所におられん。家の中は真っ暗、その病気が家の中に一人起きると。私共もそうです。これはまあ軽症患者と言うなら、ほとんど私を含めて皆じゃろうとこう思う。心が健全でない、心が病的である、此処でこげん腹を立てんで良いのに、いらいらせんで良いのにと思ってあっても、どうにも自分の心を持て余す。これは心が健全でないからである。
其処で私共がです自分の心の健全でない、心の病気をわからせて貰い心の不具者である自覚に立ってです、所謂屑の子の自覚というものがです、そこに出来て来るわけです。それが癒えて行く事のための精進をする。其処から例えばどの様な場合であっても、それは普通で言うなら濡れなければならない普通で云うならば慌てねければならない時でもですどっこい金光様を唱えたら、その場で其処に助かっている姿。
慌てんで済む自分というものを有難いと思えれる。其処までは信心を頂いておきたい。私は昨日その事のお取次をさして頂いたら、あそこにあそこの真ん中に乾物の御供がしてある。その乾物を頂いた。形の上ではやはり、それぞれね言うならば、例えばラーメンならラーメンの、即席ラーメンの御供えがしてある。いわゆる形はそうであっても、心に潤いを無くしてしまっておる。信心の、生き生きとした喜びがない。
例え周囲にそう云う事であっても、それを生き生きとした喜び。そういう時にどうでしょうかね、家の中にプンプンシャンシャンするとが居ったりましてもです、それが時々起こったに致しましてもです、それを神の比礼とこちらが受けれる程しの信心、頂いたら相手もおかげ頂くであろうが、こちらは愈々おかげ真近しという、おかげが頂かれる。こちらに、言うなら生き生きとした心、生き生きとした喜びというのはね、修行させて頂いておる時でなければ頂ける事じゃない。
心が喜びの枯れてしまう。喜びの心が枯れてしもうて居っては出来ません。信心は何時もそこん所に生々しいまでの神様、生々しい程の喜びが頂けるお繰り合わせ心の中に頂ける事。そのためには修行させて貰わなければ出来ません。云うなら私共がやはり心の病気を時々起こる事がある。そういう時にはです、もう本気で愈々神様に向こうて来るより外にはない。愈々神様に近づかせて頂くより外にはない。
本当に先のことも知らない。またはそれが神の比礼である事に気付かない。そういう間は信心をしておってもです、私は本当の信心の有難さに触れておる。おかげの有難さは解かっておっても、信心の有難さが解かってない人だと思う。本当の信心の有難さが解かると云う事はです、例えば其処に問題がある。其処に慌てなければならない様な事が起きて来る。そういう時にです濡れんで済む。
慌てんで済む、それを神様の生々とした働きと解からせて頂く処からです、信心を頂いている者の有難さは其処にあるとこう思う。此処人の口には戸が立てられんと、先を知っておらんぞとこう。昨日私はある難儀な人のお取次さして貰いよった。もう是れで愈々行き詰まったのかと、私が聞かせて頂いても思う位な難儀な処を通っておる。そのお願いさして頂きよりましたらね、この山をこうずうっと頂上に向かう道がある。
カーブになって居る所はもう先が見えないでしょうが。道はもうそこには岸壁があって先へ行かれん様に、こちらから見ると見えますけど、其処まで行って見ると、此処からまたカーブがあってまた立派な道が付いているのだなと。これを行きゃ頂上にも上がられるんだなという様な所を頂いた。はぁもうもうしまえたごと言うて心配して見えましたから。其の事を思しましたら、もう日々そういうふうにです、おかげを頂いておるのだけれども、その場に直面するともうこれでしまえた。
もう是で道はないかと云う様に見えるのです。だから手前の方でもうしまえたと言うて、今日私が言う様な事でグズグズしよったら、はっきり頂上へ行く見極めの出来るのでも其処から回れ右して行かなければならん事に成るでしょう。神様に近付かなければ、もういけんという時には御広前に出て来なければ、お取次を頂かなければ。皆さんそういう時ですもう是でしまえた、もう是で行かれんというふうにしか見えんのです。
神様にお縋りさえして行けば、其処まで行って見ると、其処から道は開けておるのです。ただカーブになっておるだけだから、こちらには人間の目には見えない。其処ん所を「先を知っておらん」と言っておられるのではないでしょうか。人間は先を知ってはいない。いかに世の人が顔に係わる様な事、これは人ではない、いかにどのような問題が起きて来て、自分の心を右往左往させる様な事があっても、腹を立てない。
そう云う様な場合であっても、「腹を立てな」と云う事は勿論それが人の場合であっても、悪口を言われたりする人であっても、問題である場合はそれは人ではない、いわゆる事柄である。どういう事態に其処に直面しても心配をせんでも良い、「腹を立てな」心を乱さんでもよい、だから其処に心を乱さんで済むだけの信心をさせて頂く処からです、神が顔を洗うてやると言うおかげに成るというのである。
神様から顔を洗うてやる云う事は、神様が顔を立てて下さるというのです。折角信心させて頂くので御座いますからね、まあ神の事を口端にかけるのも神の比礼じゃと。人の口には戸は立てられん、まあ本当言うたら信心がないのですから、言うのが当たり前。信心が薄いのだから、ガタガタするのが当たり前と解からせて貰う。だから信心を頂いておる者はです其処が解かって来る。
それをどう解かるかというと、それは神の比礼と解かる。いや生き生きとした神様の働き、おかげはもう間近という働きの印だと思うと元気が出る。いやむしろ其処に御礼が言えると云う事になるのじゃないでしょうか。折角信心させて頂くならばその神の比礼が解かる。生き生きとした神様の躍動というか神様の発動なさるおかげを下さる為の神の発動を願わなければなりません。そこにです夢にも思わなかった様なです。
神様の御発動を頂いたらもうそれはもうあれよあれよというばかりです。おかげは神様が発動を愈々頂いたらその発動前にです、いやむしろもう発動が始まっておると云うのがです、神様の事を口端にかけられるという時なんです。問題から問題を引き起こしましても、それを問題とせずにそれは神の比礼と頂く。そこまでは信心を頂いておきたい。そこまでは信心を身に付けておきたい。成程人は言うだろう、このお天気の良い日のに傘をさしたり、傘を持っておるのであるから。
馬鹿らしい事をすると言うであろう。それは言うのが当たり前。けれども傘を持つことのさしておる事の有難さ、を解からせて貰う時です、愈々降ってきた時に慌てんで済む、濡れんで済むおかげを頂いた時に、始めて神のことを口端にかけておった人も、成程神様じゃなあと、共鳴してくれるおかげが受けられる。ですから信心にはどうでも、例えばスポーツは楽しい、けれどもそのスポーツを自分がやる様になったら、それには厳しい修行が伴う様なもので、信心も同じこと。
信心の喜びというのは、ただおかげを受けるという事だけではない。その今日私が申します。それを神の比礼と解からせて頂く程しの信心には、楽しさと又厳しさが必ず伴うものであると云う事を知っておかなければならない。その厳しい所を私は大事に頂き抜いて行く。へこたれんで済む信心を頂きたいとこう思う。その先に神様が顔を洗うて下さる。神様が顔を立てて下さるおかげに繋がって行くのですよ。
どうぞ。